
This chapter discusses the history of paleopathology in Japan, which dates back more than 110 years. The oldest publication focused on syphilitic bone changes in Ainu skeletal remains (Koganei 1894). This early period (1890 to 1920) in the history of paleopathological was characterized by the introduction of the term “paleopathology” and the descriptions of lesions seen in skeletal remains of people of the Stone Age (14,000 BC: 300 BC), including trauma, benign osteomas, and osteoarthritis. In the post-World War II era the history of paleopathology was marked by an emphasis on trauma and its relationship to Japan's past. From the 1970s onward, studies in paleopathology have extended beyond exploring trauma to a wide spectrum of pathological conditions, including malignant bone tumors and specific infections, particularly tuberculosis, syphilis, and leprosy, congenital diseases, diseases associated with aging, and “stress” markers.
羽島貝塚は岡山県倉敷市に所在する縄文時代前期の貝塚である。当遺跡から1920年に発掘された頭骨1点には左前頭部に楕円形の孔があるが,それは先行研究で非人為的と報告されていた。この損傷について,肉眼およびCT画像を用いて法医人類学的観点から検討したところ,それは典型的な人為損傷の特徴を示し,形態的に「刺器損傷」に分類すべきものであることがわかった。さらに東京大学総合研究博物館所蔵資料の中で,人為損傷が報告されている頭骨3例に対しても同様に再検討を行い,法医人類学で用いられる鈍器損傷,刺器損傷,鋭器損傷の3つに分類した。そのうち2例のいくつかの孔は刺器損傷に相当すると判断された。このような損傷を生じた利器としては,これまで論じられてきた槍や矢だけでなく,近接武器としての鹿角や骨角器の可能性を検討すべきであろう。これらの損傷の性状を吟味しながら,意図的暴力や儀礼的遺体損壊を含む,損傷の背景について考察した。
大腿骨計測による既報の体量推定式は,過大な誤差が生じるため1960年代以前の日本人の体格には適していない。そこで,20世紀前半の日本人骨格の計測値を基に,古人骨への適用を考慮して誤差が小さい体量推定式の開発を試みた。まず,以前作成した温帯アジア集団および戦後10年間と1990年代の日本人の生体計測データに基づいた体量推定式を,畿内と関東の解剖晒骨標本にそれぞれ適用し,生前の体量を復元した。この計算に際し,皮膚の厚み分を加えた頭部の計測値と,各長管骨の最大長による推定身長の平均値を代入した。これらの推定式から得られた推定体量の平均値を各個体の実際の体量と仮定し,散乱骨でも活用できるよう,頭蓋や四肢骨の計測項目に基づいて部位別に重回帰分析を実施した。この分析は男女別と男女混合のケースで実施されたが,どの部位でも重相関係数は男女混合の方が高く,推定の標準誤差は3 kg未満に抑制された。上肢では橈骨および上腕骨の骨幹周径を用いた推定式が,下肢では下腿の脛骨や腓骨の推定式の方が高精度であった。特に遠位骨で誤差が小さくなる傾向が見られ,下肢骨では膝関節の幅に該当する項目を含めた推定式の精度が高くなることが確認された。
北海道大学医学部解剖学教室旧蔵古人骨は1960年代以前の発掘人骨からなる。多くは出土報告や人骨の記載報告が出版されていない。本研究ではそのうち道南道央の11遺跡(三ツ谷貝塚,尾白内貝塚,静狩貝塚,小幌洞窟,虻田郡高砂貝塚,室蘭市エンルム遺跡,本輪西ポンナイ,「輪西貝塚」,鷲別遺跡,大谷地貝塚,「江別A丘陵」)に由来する約40体の古人骨を対象に,骨学的調査,史料調査,及び放射性炭素年代測定を行ない,来歴の特定と帰属時期の推定を試みた。「江別A丘陵」の人骨は古写真等の調査により,旧豊平河畔に存在した続縄文期の土坑墓で発見された可能性が高いと推定された。来歴は特定できなかったが「輪西貝塚」の人骨は恵山式期に属すると判定された。そのほかの人骨試料間の較正放射性炭素年代の新旧は一部を除いて概ね予想通りで,1体は擦文文化期と推定されたが,ほかは縄文時代から続縄文期に属すると推定された。一方,人骨の絶対年代は総じて,土器型式に関連づけられた従来の実年代観からの予想より新しく,人骨試料への海洋リザーバ効果を小さく見積もっても不整合は解消されなかった。北海道における縄文・続縄文期の実年代については,人骨に加え土器付着炭化物,動物骨,木炭などを総合的に検討する必要がある。
白保竿根田原洞穴遺跡は,沖縄県石垣島(石垣市)南東の白保海岸から内陸側約800 mに位置する洞窟遺跡である。本洞窟遺跡に分布する泥質の洞窟堆積物からは,19体分に及ぶ後期旧石器時代の人骨化石が産出する。これらの人骨化石の産状からは旧石器時代人が洞窟を墓域として利用した可能性が示唆されている。人骨化石や動物骨化石,岩石,炭化物,海棲軟体動物の殻は層位や場所によって集中・分散が見られ,その配置・埋没プロセスが単純でないことが指摘される。本研究では,人骨化石や動物骨化石,岩石,炭化物,海棲軟体動物の殻の発掘時における3次元位置座標をもとに,これらの分布の統計的評価を行った。また,人骨化石の表面に認められる鉄・マンガン酸化物による着色の有無と個体識別されたそれぞれの部位の分布を検討した。鉄・マンガン酸化物による着色は,洞窟内部の表層近くで形成された可能性が高い。そのため,人骨化石表面に認められる鉄・マンガン酸化物による着色状態が人骨化石の集中部によって異なるという結果は,人骨の配置,移動,埋積過程がその集中部ごとに異なっていたことを示唆する。これらの人骨化石の集中部と着色状態の分布は,識別された個体の部位の分布との関係が整合的であった。洞窟遺跡においては,人骨化石の分布に合わせて着色状態を検討することで,埋没過程の復元や人骨の再移動の可能性を評価できるようになることが示唆される。